音叉 | ||
初出:同人誌「くじかタイム」第5号
脱稿:2002年8月19日 内容:青年ビオラ奏者の恋愛 |
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朝から降り続いている雨が、足元を濡らすだけに十分の水溜をそこかしこに作っている。
それを避けようにも、抱きかかえるように持った黒いケースが足元を隠していて避け切れない。
自ずと、革靴の中の靴下までしっかりと水気を吸って、ぐちゃぐちゃと音を立てている。
手に持つ傘もうざったい。
大体、楽器にだって良くない。こんなに湿気が多いと弦だってすぐ切れる(一本三千円の弦だってあるのだ!)。 それに、ただでさえ音の抜けの悪い楽器である。こう湿気が多いとさらに音色がこもってしまう。 そんなことを考えながら、雑居ビルの脇にある鉄製の急な階段を昇る。 九月ももう終わりに近付いていたが、二階まで上がるとさすがに暑くなってきた。 上の方から音が聞こえて来る。A(アー)の音。四四〇ヘルツだ。 それから管楽器の音階練習や弦楽器の重音(隣の弦を同時に鳴らす音)。 徐々に不協和音が協和音へと調律されてゆく。 D(デー)G(ゲー)E(エー)またはC(ツェー)隣の弦から弦へと弓の角度を変えながら。 三階だ。抱えたケースの納まりが悪いまま、傘を何とか畳みドアを開ける。 音と一緒に湿気の籠もった空気がむわっと来た。 広さは十分だが、倉庫のように雑然とした部屋。 十人ほどの人間が一斉にこちらを向いた。 「遅いじゃないか、古川」 団長、兼指揮者の渡邊が云った。でもたいして怒った風でもない。 「悪い、電車を乗り逃した」 途端、「お前、普通の社会人じゃ、その言い訳通用しないぞ。無論、音楽家も」 笑いがこぼれる。その瞬間、僕の視線は原田に行った。 パステルイエローのノースリーブのタートルネックを着た彼女。 チェロを抱えて笑う彼女の口は愛らしい。あまりにおかしいのか目には涙さえ浮かべている。僕は視線をそらし、頭を掻いた。 僕は古川聡。 一応、音楽家だ。 とは言ってもつい最近になって、そう言えるようになったばかり。 音大を出てから数年は一向に食えなかったのだが、つい最近ヴァイオリンからヴィオラに転向したために何とか食って行けるようになった。 ヴァイオリニストはそこらに腐るほどいるが、ヴィオリストとなると結構少ない。 需要と供給のバランスを考えればこっちの方が仕事にありつける確立も多いという訳。 しかし楽器が一回り大きくなった分、それなりの苦労もある。 まず楽譜。 ヴァイオリンならピアノでもおなじみのト音記号での表記だが、ヴィオラはハ音記号。 音大で習ってはいたが、読むとなるとそりゃなかなか慣れない。 それに弦の位置関係が違う。 両方とも四本の弦が張ってあるが、音の高さが違う。 第四弦、つまりヴィオラは一番左端の低音弦がGではなくて、さらに五度低いCなのだ。 ヴィオラにもヴァイオリンと同じ音の弦が二本ある。 でもそれらは一つずつ右にずれている。 そのため一番右端の、ヴァイオリンにあった高音弦のE線は消え、左側に新たにC線が加わるのだ。 ヴァイオリンは左からGDAE。 ヴィオラはCGDA。 同じ音を出すには弓を当てる角度を変えなければならない。 でも何より、Gよりさらに低いCが鳴るというのはヴァイオリンを十年弾いてきた僕にとってかなり気色悪い。 だが何より音色。 ヴァイオリンやチェロに比べて、ヴィオラの音というのは何ともヌケが悪い。 楽器の大きさが、音響学的に云うと、音域に対して共鳴板が小さ過ぎるらしく、他の楽器と比べて満足な音を出せないらしいのだ。 ヴァイオリンとチェロの間の音域をカバーするのだから、単純に考えても大きさだってその中間ぐらいが妥当だろう。 かといってそんなにヴィオラを大きくすると、当然、弦を押さえる指の間隔も広くなり過ぎて、ただでさえ無理な体勢をさらに無理させなければならない(ヴァイオリンやヴィオラは人間工学から考えると、とんでもない楽器なのだ)。 ドイツにいる友人に頼んで、かなり幅の広い、胴に厚みのある物を取り寄せてもらったが、やはり自分の思う満足な音が出ない。 奏法など慣れれば訳はない。 しかし、今までヴァイオリンをやっていた僕としては、自分の納得の行かない音しか出せないことが非常に苛立たしい。 弾きながら「ヴァイオリンならば…」と思うときが何回もある。 ヴィオラには「艶」がないのだ。 著名なヴィオリストには申し訳ないが、僕はこの地味な音色をいつまでも好きになれなかった。 それでも前よりはよっぽど仕事にありつける機会が増えたのだから、何とも複雑な気分だ。 それに仕事があるとは言え、やはりヴィオラは脇役だ。 演歌やポップス歌手のレコーディングに呼ばれ、バックで単純なコードの刻み(弓を小刻みに動かす)ばかりしていると、さすがに気が滅入ってくる。 上がって来たテープを聞いたって、中途半端な低音がヴァイオリンの影に隠れて聞こえやしない。 まぁそのヴァイオリンでさえ、不快な女性ヴォーカルにかき消されそうになっているのだけれど。 そんなものでもそこそこ売れているらしく、こちらも食いっぱぐれない。 割り切らねば、と思いつつも欲求不満が募るばかりだ。 そんな仕事が続いていたせいか、渡邊からオケ(オーケストラ)の話があったとき、すぐに飛びついてしまった。 入ってみるとやっぱりというか金にはならない。 むしろ手弁当でやっているから大赤字である。 それにメンバーも二十人に満たない状態で、素人も多いからもちろん満足な音も出ない。 後悔しかけたとき、僕は原田に会って立ち止まった。 原田佐和子。 高校時代の音楽部の先輩である渡邊に声を掛けられて、週末ここを訪ねるようになった。 ちなみに渡邊と僕は高校時代の同期である。 原田はつまり、僕が高校の音楽部にいたときの直接の後輩でもあるのだ。 何故そんな遠回しに言ったかというと、僕にはまるで彼女が後輩だったという印象がない。 渡邊に云われてやっと「ああ、そうか」と気づくほど彼女は印象を変えていた。 肩まであった髪は思い切りショートにし、余分についていた肉もすっかり落ちていたからだ。 「ほらぁ、どうです? コンタクトにしたんですよ」 彼女の話し声を聞いて鈴のような声だな、と思った。 可愛らしい声だ。 僕は昔から口数の少ない方だったから、高校時代に彼女と会話した記憶がほとんどない。 何せ全国大会にも出るくらいの音楽部だったから、部員もけっこう多かった。 おまけに僕はコンクール前にしか顔を出さなかったユーレイ部員だったから印象に残るはずがない。 でも彼女は何故か親しげで、僕の記憶にないことを話しては笑顔を絶やさない。 そんなわけで、隙を見てすぐにでも抜け出してやろうと思っていたのが、こうして週末欠かさず練習に来てしまっている。 そんな自分が情けない。 僕は雨で湿ったコートを脱いで、彼女の隣に腰掛ける。 「先輩、今日は遅かったじゃないですか」 「ああ、昨日は深夜までテイクが決まらなくてね……」 「レコーディングだったんですか? 誰のです?」 「○○○○」 今売れっ子の女性歌手の名前。 「スゴイですね! 今度見学に連れてってくださいよ」 「ああ」 わざと気のない返事をする。 目線も彼女の方には向けず、松脂を付けるのに忙しいといった振りをした。 「A(アー)」 「あ、はい」 彼女はボーイング(弓で弾くこと)でAの解放弦を鳴らした。 周りの楽団員も鳴らし始める。 楽器が湿気を吸ってしまっているせいか、微妙にピッチ(音程)が狂っている。 左手で糸巻きを操りながら、素早く調律を済ませる。 調律が終わり、一瞬の沈黙。 「じゃ、いいかな。今日は第二楽章から。イチ、ニッ」 渡邊が勢い良くタクトを振り下ろすと、一斉にアレグロで楽器が鳴った。 ヴィオラとチェロはユニゾン(斉唱:同じメロディでの演奏)で刻みを始める。 十六分音符で延々三十二小節。 数年楽器から遠ざかっていたとはいえ、彼女はなかなかの腕前だ。 無論、素人のレベルでの話だが。 「ストップ、ストップ!」 渡邊がタクトを頭上で振った。 「八十七小節のところのファゴット、アクセントが弱すぎる。 もう少し歯切れ良く」 的確な指示が飛ぶ。 渡邊はあちこちの市民オーケストラや、合唱指導をしていて、それなりのキャリアも実力もある男だ。 自分のやりたかったジャンル(バロックやモーツァルト)だけに熱も入る。 「それからチェロ……」 原田がピクッとなったのが分かる。 「テンポはまぁいいんだが、ちょっと走り過ぎないように」 「はぁい」 彼女は舌をちょろっと出した。 「では五十九小節目のアウフタクト(区切りのいいところ)からもう一度」 渡邊がタクトを振り下ろそうとしたとき、窓の外で閃光が走った。 そして轟音。 電柱に落雷したのか、練習場の照明が一瞬、チカチカッと消えた。 「きゃあッ!」 彼女の弓を握ったままの右手が僕の左腕に噛み付いた。 「!」 僕は二の腕に彼女の爪の食い込むのを感じた。 雷が立て続けに近くに落ちる。 その度に彼女は握る力を増した。 腕の皮膚が引きつり、血の気が引いてゆく感覚。 窓の外の黒い雲が晴れ、やがて雷が遠ざかって行くと、彼女ははっと手を放した。 同時に持っていた弓が床で撥ねた。 「ご、ごめんなさいッ」 彼女はチェロの指板の前で、その右手を左手で叱り付けるように握った。 「だ、大丈夫」 僕は左腕の引きつった皮膚が熱を帯び、脈打っているのを感じながら、何事もなかったような顔をしていた。 その日は三時頃に練習が終わり、僕はその場を後にした。 夜にレコーディングの続きもあるので、僕は皆と会話をほとんど交わす事なく、帰路に就いた。 ただ一人、原田だけはしきりに「ごめんなさい」を連発していた。 僕はそれに対して「ああ」とか「うん」とか、いい加減な返答しかしなかった。 一人街を歩くと、雨はようやく傘を差さなくてもいいほどの小雨になっていた。 が、ケースの中とはいえ楽器を濡らす訳にも行かないのでそのまま傘は広げていた。 楽器を抱える左腕がじんじんとする。 下宿(六畳一間の木造アパート)に着いて服を脱ぐ。 左腕には彼女の爪痕がくっきりと赤紫色になっていて、所々血も滲んでいた。 傷口を眺めながらぼやーっと彼女の申し訳無さそうな顔を思い出した。 あどけない瞳に、少し涙を潤ませていたような気がする。 「今度会ったときに意地悪でも言ってやろうか」 そんなことを考えながら、畳にゴロンと横たわった。 耳を当てると、サーサーという雨の音が畳から聞こえてきた。 どこからか遠雷が鳴っていた。 夜になって、都内のレコーディングスタジオに入った。 すると見慣れた顔が二つ。 「来ちゃった」 渡邊と原田だ。 「だって、いくら言ってもちっとも連れてってくれないんですもん」 彼女は不満げに胸を張る。 僕はその隣の、笑顔で突っ立っている渡邊を睨んだ。 「ああ、分かったよ。悪かった。でも邪魔しないでくれ」 「はい」 陽気な笑顔の横に手で敬礼のポーズを作った。 高校を出てから久しいというのに、彼女はまだその感覚が抜けていないらしい。 なぜかこっちが恥ずかしくなってきた。 顔が少し赤らんでくるのをごまかそうと、譜面に顔を近づける。 彼女がガラス越しにこっちを見つめているのが分かる。 意識しまいと思いながらも、普段しないことまでしてしまう。 「ちょっといいかなぁ。 ここのコード進行、Aマイナーで行くより、B♭SUS4(ビーフラット.サスペンディット・フォー)の方がいいと思うんだけど」 「あ、それいいかもしれないね」 テレビでおなじみのプロデューサーが頷く。 ちらりと彼女に目をやる。 途端手を振る彼女。 目を逸らす。 やりにくい。 演奏も何だか上の空に(とは言ってもそこはプロ、気づかれずに)終え、テイクバックのチェックのためにスタジオ待機となった。 彼女は熱いコーヒーを持って来てくれた。 「すごいですね、センパイ。かっこいい!」 その紙コップを受け取ると、一口すすった。 粘り着いた口の中を擦り抜ける、苦い芳香。 長い前髪が汗を吸ってうざったい。 「渡邊は?」 「合唱団の打ち合わせだそうです。 別名『有閑マダムのお茶会』ですって」 二人で笑った。 でも、それきり僕は黙ったまま。 疲れた振りをして、スタジオの横にある擦り切れたビニル・レザーのソファーに寄りかかる。 「センパイ」 「ん?」 「高校のときのこと覚えてます?」 「あ、何?」 「昔から変わってないですね。そういうトコ」 「あ、ごめん」 彼女は横にチョコンと座り、勝手に話を進める。 「センパイ言ってたじゃないですか。高校のとき『プロになる』って。ホントになったんですもん。スゴイですよ」 「別に……スゴかないよ」 「スゴイですよ! 私なんか結局、勇気ないから無難な道選んじゃったし。何かこのまま結婚して、子供産んで、トシとっちゃうのかなぁって思うと、何か虚しいですよ」 「……結婚するの?」 「えー! まだですよ。たとえばの話。だってまだ相手もいないのに」 彼女は指を組んだり、絡めたりした。 「でも、いいですよね。好きなコトを職業にするって。あこがれちゃうな」 彼女の言葉がちょっと引っ掛かった。 反論しようかとも思ったが、しなかった。 「でもそれって、こっちの勝手な思い込みですよね」 そう言うと、彼女は指を組んだまま背伸びした。 ミキサー室のドアが開いた。 「テイクバック、OKです!」 二人で外へ出ると、すっかり昼間の雨はやんでいた。 濡れたアスファルトの路面に街の光が反射して、さながら水上の夜景のようだった。 駅前まで来ると、まだまだ街は眠りそうもない活気で一杯だ。 「飲みますか?」 彼女が体を斜めに傾けて、こちらを覗き込むようにして言った。 僕も丁度、ジンライムでも引っかけたい気分だった。 「行こか」 「私、いい店知ってるんですよ。 そこ行きましょ」 引きずられるようにして僕は彼女の後をついて行った。 彼女の言う「いい店」とは居酒屋だった。 それも、学生よりも中年サラリーマンの方が多い店。 「ここ、つまみが旨くて安いんですよ」 別にデートしている訳ではないから、と思いながらもちょっと調子が狂ってしまう。 この場の主導権は完全に彼女が握ってしまったようだ。 「カンパーイ!」 彼女は生のジョッキを高々と挙げて、僕のグラスに勢いよくぶつけた。 僕はいぶかしげにグラスを傾けてから、ジンライムを喉に流し込んだ。 何せここのは氷の入ったグラスと一緒に、そのまま「ジンライム」の絵が印刷された缶の状態で出て来たのだから味気ない。 彼女はそんなことも気にせずぐびぐびっと飲み、次から次へとつまみをオーダーしている。 「えーっとぉ、手羽ギョウザもうまそうだなぁ。 頼んじゃおっかなぁ」 彼女はたまに視線をこちらに向けながら、メニューに夢中になっている。 見るからに楽しそうだ。 店員がオーダーを終えてその場を去った後、僕は店の壁にあるメニューをぼんやりと見ていた。 何か食べたいものがあるわけでない。 居酒屋なんてほとんど行かないから、メニューが新鮮に見えるのだ。 それに目のやり場に困っているのもある。 僕は雑談が苦手で、それを避けたいがためにあまり人と視線を合わせないのがクセになっているのだ。 「まーたセンパイ、ボーッとしてる」 「あ、ごめん」 「私みたいなカワイイ女の子目の前にして、ボーッとしないでくださいよ! なーんて自分で言うなよって」 「ああ、カワイイよ……」 慣れないお世辞を言う。 いやお世辞じゃなく、本当に可愛いと思う。 「いやーだ、センパイ。 照れちゃうじゃないですか」 僕にはこの先の会話が続けられなかった。そのために沈黙が続いてしまう。 僕は昔から会話を膨らませることができずに、気まずい思いをすることが度々あった。今でもそうだ。 でも彼女はその点、どんどん一人で話を進めてしまうから助かる。だがたまにはこちらから話さねば。何を話そう…… 「この店にはよく来るの?」 考え抜いて出たセリフがこれ。情けない。 彼女はその言葉に一瞬はっとして、今までの笑顔を曇らせた。 が、すぐに無理矢理な笑顔でこう返した。 「いえ、ええと、前に勤めてた会社が近くにあったから……ここは久しぶりです。うん、久しぶり」 彼女はそう言うと、半分近く残っていたビールを一気に飲み干した。 「ね、店変えましょうか? ハシゴ酒!」 笑顔ではいるが、さっきとは様子が違う。何か焦っている。 「ここの勘定、私にまかせてください」 「いいよ、払うよ」 「いえいえ、まかせてくださいよ」 せかされるようにして店を出る。一人店の外で考える。何か僕は不味いことでも言ったのだろうか。だから雑談は苦手だ。 「お待たせしました。次はどこ行きましょ!」 さっきの笑顔が戻っている。考え過ぎか。 「じゃ、僕の知ってる店でも行こうか。音楽聞けるトコ」 「最高!」 僕らは電車に乗って、僕の行きつけのジャズ・バーへ行った。 行きつけとは言っても、店が地元の駅前にあるだけ。 月に一度寄るか寄らないかのペースでしか来ないので、常連とは程遠い。 駅を出ると、すっかり車道のアスファルトは乾いていた。 駅前の雑居ビルの狭い階段を上がる。 ドアを押すとベルがカランと鳴った。 中からはジャズ・ピアノのアップテンポの曲。 「古川ちゃん、久しぶりだね。あれ、今日は彼女同伴? なかなかやるねぇ」 小柄なマスターがカウンターの奥から目ざとく彼女を見つける。 「そんなんじゃないって」 「はーい、彼女でーす!」 彼女は僕の腕に抱きついて、チョコンと礼をした。 言い訳しようとも思ったが、もうどうでもよくなって来た。 「どうぞ、二人で勝手にからかっててくれ……」 カウンター席を合わせても二十人も座れない狭い店に、客は僕ら二人だけだった。 店には常時ピアニストがいるのだが十一時を過ぎると帰ってしまう。 僕らはいつもお決まりのセミグランドピアノ横のカウンター席に座った。 「古川ちゃんはいつものね。そちらの彼女は何にします?」 「私も同じの」 「ハーパーのロックだけどいいの?」 「平気です」 マスターはクリスタルのグラスにリズムカルに氷を入れると、いつものように多めのIWハーパーを注いだ。 「はい、どうぞ」 差し出したグラスに彼女が手を伸ばすと、マスターは言った。 「あなた楽器やってるでしょ」 「あ、はい」 「やっぱりね。手を見れば分かるよ」 「えー、ホントですかぁ?」 「うん。この商売長いからね、すぐわかるよ。ちなみに手相も詳しいんだよ、僕は」 「すごーい! 見て見て」 「マスター、それって若い女の子の手を触る口実でしょ」 「あ、バレた」 そう言いながら彼女の差し出した左手を見るマスター。 それを横から眺めていた僕はあることに気が付いた。 「!」 彼女の手首には傷痕があった。 内側に五センチはあるだろうか。 明るいと見えなかったこの古傷は、このバーの薄暗い照明のせいで、盛り上がった肉に影が落ちて見えやすくなっていた。 ムカデのように醜い傷痕は、鋭い刃物で切って、何針も縫ったためであろう。 うっすらではあるが、そう確認できた。 いかにも占い師然としたふりで、彼女の手を覗き込むマスター。 彼も気づいてはいるのだろう。 が、それには触れず、ただ一言。 「あなたは強い人だ。 けれど無理はいけないですよ」 優しい笑顔だが、語気は強めだった。 「なーんちゃって。あ、古いか」 「あはは!」 そのあとも二人は僕をネタにしながら談笑していた。 いつもと何ら変わらない彼女。 見てはいけないものを見てしまった気がして、今日のハーパーはいつもより苦く、辛く感じた。 時計が十二時を回った。 「マスター、じゃ、そろそろ帰るよ」 「えー、まだマスターとお話ししたーい!」 「電車で帰るんだろ。終電なくなっちゃうぞ」 「ちぇー」 渋々席を立つ彼女。足がふらついている。 「おいおい、大丈夫かよ」 「うん、へーき、だいじょーぶいっ!」 Vサイン。だめだこりゃ。 「ちゃんと彼女送って行きなさいよ」 「わかってるよ」 「マスター、じゃーねー! またねー」 手を振りながらふらつく彼女に、肩を貸す。マスターがドアを開けながら、僕の耳元で囁いた。 「彼女、ちゃんと見守ってあげなさい」 「いや、そんな関係じゃないって……」 と言いかけた途端、僕は彼の真面目な顔に驚いた。彼の商売抜きの顔を見るのは初めてだ。 僕はこのとき、その言葉の真意もつかめぬまま「はあ」としか答えられなかった。 階段を倍の時間かけて降り、駅に向かう。 僕はこの近所だが、彼女の家までここから電車で二十分はかかるはずだ。 果たして彼女がちゃんと無事に帰れるのか心配になってきた。 「センパーイ、すみませーん……ホント」 「何、こんなになるまで酔っ払ってんだよ。しょうがないなぁ」 「すみませーん……すみ……」 彼女の声がフェイド・アウトしている。よく見ると歩きながら寝ている。 「おい、寝るな、おい!」 ほとんどこちらに寄りかかって、寝息を立てている。 「おいおい、起きろー! おい……って何でこうなっちゃうんだよ」 仕方なく、僕は自分のアパートで少し休ませることにした。 何せ家まで送ろうにも、彼女の住所を知らない。 ヴィオラのケースを前に提げ、二本の傘を脇に抱え、彼女を背中に背負ってアパートに向かう。 普通に歩けば五分もない場所だが、休み休み歩いたので十五分もかかってしまった。 普段運動しない僕にとっては苛酷な労働である。部屋に着いたら息が切れた。 「はぁ、はぁ。参っちゃうよなー。何でこんな目に遭わなければならないんだ。ふー」 一人誰に聞かせるわけでもなく、声が出てしまう。 とにかく、少し休ませたらタクシーでも呼んで帰らせよう。 とりあえず横にした彼女を揺り起こしてみようと、顔を見た。 顔を歪ませた彼女の頬には涙が伝わっていた。 閉じた目からあふれる涙。 「ごめ……ごめんなさい」 何か悲しい夢でも見ているのか、寝言を言っている。 誰かの名前も呼んでいるようだったが、何と言っているのか、聞き取れなかった。 僕には何が何だか分からなくなってきた。 居酒屋での変な動揺。手首の傷。無茶な飲み方。マスターの意味深な言葉。そして涙。 それらが僕の頭の中でぐるぐると回って謎を深めてゆく。 アルコールも入っていたため、僕はものすごい眠気に襲われた。 僕は布団を敷いて彼女を寝かすと、壁際で毛布に包まった。 何もすっきりしないまま、意識が落ちてゆく。 普段しない運動をしたせいもあって、僕はいつもよりも深い眠りに陥ってしまった。 夢を見た。親の夢だ。母親が泣いている。顔のはっきりしない父の叫び声。 僕はまだ幼くて、何もできずに襖の影で脅えている。 それは過去の現実。 僕の親は僕が物心つくかつかないかの頃に離婚している。 だから僕は父の顔を知らない。 でも、襖を通して聞こえた怒号、その声だけが僕の脳裏に焼きついている。 時折こうした夢を見ては、僕はうなされる。 朝になっていた。寝汗で体がべとついて、気持ちが悪い。 窓から日が差し込んでいる。外は晴れているのだろう。今何時だろうか。 「うーん」 原田だ。すぐ横に寝顔があった。そうか、昨晩からここに泊っていたんだ。 横たわったまま、まだピントの合わない目で彼女を見る。 顔の横に腕が投げ出されていて、僕の目は自然に彼女の手首に集中する。 昨晩ほどではないがうっすらと見える。 周りの皮膚とすっかり同化してはいるが、あきらかに生まれつきのものとは違う組織でできている、寄生生物を思わせる傷跡。 高校を卒業してから今まで、彼女に何があったのか。 様々な憶測が僕の頭の中で過った。そうだ。渡邊が何か知っているかも知れない。あとでそれとなく訊いてみよう。 僕は立ちあがり、トイレを済ました。台所の窓を開ける。 この一週間降り続いた雨は見事に止んでいるようだ。 さわやかな風、と言いたいところだが地面が湿気を吸っているようで風も湿っぽい。 かすかに自分から雑巾のような匂いがする。そういえば自分の服も湿っぽい。 彼女もまだ眠っているようだし、シャワーでも浴びてから着替えるか。 僕は彼女が目を覚まさないように着替えを用意し(なぜ自分の家でコソコソしなければならんのだ!)シャワーを浴びる。 髪がここ何日か溜め込んだ汚れのせいでなかなか泡立たない。 不精しているうち、いつのまにか肩まで伸びてしまった。 まぁ、いかにも音楽家風でまんざらではないとは思うが。 ヴィオラに転向してからだろうか。不規則な生活が続いている。今日は久々の休みだ。 どうせなら浴槽に湯を沸かし、ゆっくり浸かれば良かったか。 「痛ッ」 左の二の腕に手が触れた途端、皮膚の裂ける痛み。昨日原田がつけた傷だ。 うっかり石鹸の付いた爪で引っ掻いてしまった。見る見る血がにじむ。 たいした出血ではないが、痛みのあまり慌てて浴室を飛び出した。 「!」 原田と目が合った。 一瞬二人して凍りつく。 「うわっ」 僕がまず先に我に帰った。 普段隠しているところが丸見えだ。 慌てて近くにあったもので適当に隠す。 「ご、ごめんなさい! トイレを借りようと思って…」 トイレは脱衣所とつながっているのだから、彼女が来るのも当然だ。 「…大変! 血が出てるじゃないですか!」 彼女は突然、僕の腕を掴んだ。突然、と言っても慈しむように優しく。 彼女は僕の二の腕から流れる血を口で吸った。彼女の予想もしない行動に僕は驚いた。 「…汚いよ」 「……」 彼女は無言で僕の腕を吸う。自分でつけた傷に対しての償いなのだろうか。 はたまた母性本能のなせる業なのか。傍目から見たら非常に奇妙な光景だろう。 だが僕は濡れた体を拭けず、恥ずかしい格好のまま、呆然と彼女のするがままに任せるしかなかった。 僕はいつのまにか彼女を抱いていた。 僕は彼女の手首の傷跡を舐めた。塩っぽい汗の味。 うっすらと甘い体臭。最初は抵抗を示した彼女も、いつしか身を委ねていた。 お互いの傷を舐め合う。僕らは文字通りそれだった。 猫が仲間同士互いに舐め合うように、いつしか僕らはお互いの全身を舐め合った。 汚いとは思わなかった。 むしろ舐め合うことによって僕らは傷を癒し、浄化させていたのだ。 やがて二人の体は一つになった。 彼女は小さな体で僕の体を一生懸命受け止めていた。 そんな彼女がとてもいじらしい。 僕は胸を締め付けられ、思わず彼女を強く抱きしめる。 彼女の心臓の鼓動が肌から直に伝わった。 暖かな脈拍。 それはモーツァルトのディヴェルティメント。 悦楽の音楽。 そして鈴の音のような声を耳元で聞きながら、僕は果てた。 僕は彼女を抱き寄せた。 何があったのかは知らないが彼女は僕の胸の中で泣いた。 この時、マスターの言葉を思い出した。 『彼女、ちゃんと見守ってあげなさい』 そうだ、僕は彼女を護ってやらなければいけない。 これ以上辛い目に合わせたくない。 僕は一層彼女を強く抱き寄せた。 僕は窓を開けた。よく晴れた日だった。よく晴れてはいたが暑くはなかった。 もう十月になろうとしている。僕は夏よりも冬のほうが好きだ。十二月生まれのせいかもしれない。 だからといって寒いのが好きなわけではない。 外が寒ければ寒いほど、部屋の中の暖かさに安らぎを覚えるのだ。もうすぐ冬が来る。僕にとっての安らぎの季節。 「何を見ているんですか?」 彼女は言った。僕は空を見ていた。空には筋上の雲が幾重にも重なっていた。 彼女も同じ方へ顔を向ける。 僕は彼女といっしょに、その雲が向かいに見えるビルに隠れてもずっと見ていた。 やがて空が赤くなるまで。 「今日はもう帰ります。 明日、会社だから」 殆ど二人で何もしないまま夜を迎え、彼女は言った。 「あ、うん。また来週」 「はい、来週」 「駅まで送ろうか?」 「大丈夫、一人で帰ります」 僕は無言でうなずいた。そして彼女の後ろ姿が見えなくなるまでそこに立っていた。 「お前、原田とつき合っているんだろ?」 渡邊は唐突に切り出した。翌週の練習日、トイレで同席したときの一言だ。 このオンボロ練習所の雨どいが悪いのか、窓の外からバシャバシャと水の音が聞こえている。雨が強くなったようだ。 「…な?」 「ああ、言わなくてもわかる。おまえは本当にそういうの、隠すの下手だからな」 「……」 別に隠すつもりではなかったのだが、なんとなく照れ臭くて言う気にはなれなかった。 しかし渡邊には見え見えだったらしい。 「ま、べつにいいんじゃないか? 結構お似合いだぜ。で、どこまで進んでるの」 「お前なぁ」 しかし渡邊の奴、有閑マダムに感化されたのか、ワイドショーのリポーターのようである。 用を済ませて立ち去ろうとする彼はこう続けた。 「苦労人みたいだからな、彼女。大事にしてやれよ」 「そうだ、お前…」 僕が聞く間もなく、渡邊はタクトを取って練習再開。こちらを見てニヤニヤしている。 原田と二人で思わず顔を伏せてしまう。 今日は第三楽章のアンダンテ(歩くような速度の曲)からの練習だ。 最初の六十四小節は弦楽器のアンサンブル。 この第三楽章は小刻みなメロディのヴァイオリンに対し、僕たち低音パートは緩やかにハーモニーを奏でる。 長調の和音が心地よい楽章だ。 原田はヴィブラート(弦を押さえる指を動かして音を震わせる奏法)があまり得意でなかった。 もちろんアマチュアクラスでは問題ない程度に何とか演奏にはついてきている。 とはいえ本人も気にしているようだった。 思わず彼女の手首に目が行ってしまう。 演奏が始まると僕は注意深く彼女の音を聞き取り、ユニゾンでいつもよりヴィブラートの幅を大きくして彼女をカバーした。 音感は決して悪くない彼女である。 僕のカバーも相まって、ユニゾンなのに純正調の和音を聴いているようで、二人の楽器が共鳴を起こして音が増幅されているかの錯覚を起こした。 タクトを振る渡邊も目を閉じて恍惚の表情を浮かべている。 学生時代には課題でこの手の曲ばかり弾かされてうんざりしたものだが、こんなに気持ちよく弾けたのは僕にとっては初めてのことだった。 中断もなく気持ちよく六十四小節目を過ぎて管が入った。 僕らのパートが単純な刻みになったところで原田の方を向くと、彼女も安心したのか笑顔になっていた。 結局最後まで中断することなく演奏が終わると、渡邊は手を叩き、 「ブラボーブラボー! 初めての共同作業に拍手を!」 と他の楽団員が首を傾げているのもお構いなしに、悪趣味なジョークを吐いた。 その言葉の意味がわかっているもう一人の方は、チェロの影に隠れるようにして赤くなっていた。 練習を終え外に出ると、来るときには強かった雨も弱くなっていた。 「私、雨女なんです」 原田が重そうなチェロケース(実際は見た目ほど重くはないのだが、一六○センチに満たない彼女には重そうだ)を抱えながら言った。 しっかりとビニールコートで武装し、ケースもしっかりとビニールで防水している。 足元は小学生のような白のゴム長靴。渡邊と顔を見合わせて笑う。 「もうっ、何がおかしいんですかっ!」 「はは、ごめんごめん」 渡邊が僕の腋をさりげなく突いて言った。 「じゃあ、俺はこれで。あとは若い者同士でごゆっくり」 「お前、同い年だろッ」 小柄でがっしりした背中を向けて、渡邊は右手を挙げて返事した。親指を立てて意味深なジェスチャー。 「グッド・ラック」ということか。だが、これからまたレコーディング。 そして明日は音楽教室の講師をする予定があった。 それを告げると残念そうな彼女。 「来週、会おう」 彼女の明るそうな笑顔が戻った。僕もつい顔がほころぶ。 一緒に歩きながら駅までの道のり、僕は普段からは考えられないほど饒舌になっていた。 「こないだのレコーディングのとき、僕のことうらやましいって言ってたよね?」 「ええ」 「僕も『好きなことを職業にするのは不幸だ』という言葉を何かで聞いたことがあるけどそんなことはない、そこそこ楽しんでいる、と自分では思っていたんだ」 「…思っていた?」 「うん、思っていた。でもやはりどこか不幸なことがあるかも知れない、と思い始めたのは実は食えるようになってから、つまりヴィオラに転向してからなんだ」 彼女は僕の話を頷きながら聞いている。 「以前は食うに食えないで音楽とは全く関係ないアルバイトをしていても、ヴァイオリンさえ弾けば気が晴れた。幸せだったんだ」 僕は昔から自分の気持ちを素直に表さない質である。 こんなことまで話している自分に驚きつつも、次から次へと自分のヴィオラに対する不満をぶちまける。 「…僕は正直、今の仕事を好きになれないんだ」 その言葉に反応して彼女が言った。 「でも私、センパイのヴィオラ好きです。一緒に演奏していると、支えられているようで」 僕は衝撃を受けた。自分の音楽に対するアプローチが技術や音色に集中していることに気づかされた。 僕は何で音楽を始めたのだろう? そんな原点さえ忘れていたようだ。 僕はもう次の言葉が出なくなっていた。 程なく駅に着いた。 「ごめん、変な話になって」 「いえ、いいんです。こちらこそごめんなさい」 二人とも次の言葉を出すのをためらう。しばらくの無言。 が、二人タイミング良く同時に顔を上げると、ぷうっと吹き出した。 「じゃ、電話する」 「はい。では、来週の日曜に」 彼女はくすっと笑った。 「え、何?」 「こういうのを幸せっていうのかな」 彼女の何気ない一言。でも、その言葉には重みが感じられた。 彼女の過去に何があったかは知らない。でもそんなことはどうでもいい。 チェロケースを抱えた彼女の背中を遠目に追いながら、僕は今この幸せを大事にしたいと思った。 もうそろそろ待ち合わせの時間。 僕はいつになく早起きで、原田との待ち合わせ場所に三十分も早く着いてしまった。 日曜の街は朝からの雨降りでいつもより人出が少ない。 とはいえ、色とりどりの傘が絶え間なく右へ左へ流れていく。 僕は駅のモニュメント前の軒下で、ぼんやりとあちこちから流れる音を拾っていた。 トリコロールのビニールテントに落ちる雨。電気店のテーマソング。 タクシーやバスの水しぶき。横断歩道の「通りゃんせ」。 普段、聞き流している音を注意深く拾ってゆく。 「そういえば最近、作曲してないな」 ぽそっとつぶやく。周りの目を感じて顔を伏せる。この頃独り言が多くなった。 彼女と付き合い始めてからだ。この頃周囲からも「変わったね」と言われる。 それも良い意味で言われることの方が多い。それはヴィオラの音にも現われていた。 派手さはないが包み込むような広がりが出てきたように自分でも思える。 弦楽器は使い込む程に音が良くなっていくもので、ちょうど今頃になってそのエイジング効果が現われてきたのかも知れない。 とはいえ、彼女の「センパイのヴィオラ好きです」という言葉が僕の演奏を変えたことは確かだ。 僕はヴィオラを好きになりかけていた。 街の音に耳を澄ませていると、そこに聞き慣れた声が一つ。 見ると通りの向こうでグリーンの傘の下で手を振る原田がいた。 「センパーイ!」 グリーンの傘が他の傘の渦に紛れて見えなくなったところで、僕は何故かマスターのあの言葉を思い出した。 「彼女、ちゃんと見守ってあげなさい」 ───突然、自動車の急ブレーキ音。 僕はいやな予感を振り払うように走った。 通りの向こうで傘が一点に集中している。 人混みの傘を体が濡れるのも構わず振り払いながらその中心にたどりつくと、先ほどのグリーンの傘が斜めに止まったタクシーの横を転がり続けていた。 そしてタクシーの陰から見えたのは、アスファルトの上にうつ伏せに丸まって倒れている……! 「おい、原田!」 「あ、センパイ…」 抱き起こそうとすると彼女の額から流れるものがアスファルトに降り注ぐ雨の波紋に赤を落としている。 「あ、頭、頭打ったのか?」 「そう…みたい」 「いいか、じっとしていろ。すぐに病院へ、病院に連れて行ってやる」 彼女の顔はみるみる蒼ざめて、抱き起こした腕に力がなくなってゆく。でも彼女は何かを思い出したのか、くすっと笑った。 「あ、はは…センパイ、おかしいですよね」 「何が」 「私…自分で死のうなんて思ったこともあったんだけど…」 「そんなこと…あまりしゃべるな」 「今は…今は死にたくない」 彼女の顔が悲痛に歪む。彼女の小刻みな震えが手に胸に、伝わってくる。容赦無く降り注ぐ雨が冷たい。 「大丈夫だ。しっかりしろ」 僕は自分の上着を脱いで彼女に巻付けた。それでも彼女の震えは止まらない。その震えさえもだんだんと弱まって行く。 どうしようもない現実。 「…センパイ」 「ン?」 「ありがと…」 「な、何を?」 「えと…うん、ありがと…」 「……」 遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。 その音が次第にクレッシェンドするのを感じながら、僕はゆっくりと彼女を抱いた。 ────音が、消えた。 また雨だ。強くも弱くもならず降り続いている。静かだ。 原田の葬儀は彼女の実家で行われた。僕は結局棺の中を見なかった。 黒傘の長い行列と、無邪気に写った笑顔の遺影しか記憶になかった。 出棺前に僕はもうそこを後にして、ふらふらと街を歩いていた。 石畳を洗い流す雨を見ながら歩いていた。街はいつも通りの喧噪。でも僕には何も聞こえなかった。 電話ボックスに入り僕は渡邊に電話をかける。 「…オケ、辞めるよ」 「そうか、残念だけど仕方ない」 「……」 「いつでも、戻って来いよ」 「…ああ」 電話を切る。テレホンカードの抜き忘れを知らせる不快な電子音。 あらゆる外界の音が耳に入らなかった僕にとって、その音は僕がここに存在していることを知らせているようだった。 ピーピーと耳をつんざく音を、僕はしばらくそのままにして見つめていた。 下宿に戻り、ネクタイを緩めて畳の上にゴロンと寝転ぶ。 すると目の前にあった棚の上の筆箱に金属製の棒が二本突き出ているのが見えた。 引き抜いて見るとそれは十センチ程の小さな音叉だった。 把手の端は球形になっていて「A―440」の刻印がある。 学生時代に使っていたもので、四四○ヘルツの音叉だ。 埃を払い、指で弾いて音を鳴らしてみる。微かな音でチーンという音がした。 把手の玉を耳の穴に入れてもう一度指で弾く。 今度は耳の中でポーンと反響し、その音はゆっくりと減衰した。久々に聞く正弦波。 音叉を上にして寝転がったまま何度も何度も音を鳴らす。自然と涙が出てくる。 彼女とのあの練習場での調律を思い出す。 そうだ、僕はもう二度と彼女と同じ「A(アー)」の音を響かせることはないのだ。 そう思うと涙が止まらなかった。それでも音叉は僕の耳の中でいつまでも「A」を響かせていた… |
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