短 編 小 説 |
(無題) |
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泉 和浩 | |
地平に近づいた太陽がひときわ大きく輝いていた。昼間の熱気がいつの間にか去り、
風は夏の終わりというよりも秋の初めの雰囲気を感じさせた。 僕は仕事の終わった開放感から、ゆっくりと家への道を歩いていた。 背中から太陽の光を浴びて足元の影が遠くまで伸びている。数日前と違って、 歩いていても汗ばむことはなく、散歩をしているような気分で自分の影を追いかけていった。 駅前の少しにぎやかな通り、といっても繁華街と呼ぶほどではないが、を抜けて住宅街に入っていた。 家まではあと10分もかからない。公園の脇をぶらぶら歩いて、十字交差点にさしかかった。 通りを渡ろうと左右を見ると、右手のひとつ向こうの交差点にワンピースを着た女の人が立っていた。 「やっぱり…」 思わずつぶやいた。昨日も、その前もその人は立っていた。家で妻にその話をしたところ、 「あそこで事故があったのよ。細いほうの道から出てきた車に、直進してきたのが突っ込んだらしいわ。 ぶつけられた方の人が死んじゃったんだって。やっぱりあそこは信号が必要よね」 と言っていた。その交差点は大きいほうの道が近くを走る国道の抜け道になっていて、 そこそこ広い道なのでかなりのスピードを出す車も多い。前から車の事故はよくあったが、 それでも死んだ人がでたと聞いたのは初めてだった。 3日目ともなるとさすがに気になって、またちょうど誰もいなかったので、その人の方に歩いていった。 歩いていきながら違和感を覚えた。しかしなにがひっかかるのかは、わからなかった。 近づくと交差点の脇に花束がいくつか置いてあり、その横に彼女は立っていた。花束を見下ろすようにうつむいている。 背中の半ばまで届く髪に覆われて、どんな顔かは見えない。かすかに肩が震えているのは嗚咽をこらえているかのようだ。 近づいては見たものの、さてと僕は思った。下手に声をかけて怪しまれては困る。 といってもせっかくここまで来たのにこのまま帰るのも馬鹿らしい。それにまさかとは思うが、 自殺なんかされても困る。3日もたっているなんて、よほど亡くなった方と親しい人なんだろう。 「あの…」 思い切って声をかけてみた。 「どうかされましたか?」 といったところ、急に泣き出した。僕は慌てて言った。 「すいませんすいません、別に怪しいものではありません。昨日も見かけたんで、気になって」 すると彼女は小さく首を振って、うつむいたまま言った。 「違うんです、ずっと一人で立っていたんで、なんか声をかけられたらほっとして」 どうやら怪しい人と思われたというのは僕の勘違いだったらしい。泣き声はおさまったが、 しゃくりあげるように彼女はしゃべった。肩もそれに合わせて震えていた。 「やっぱりこの間の事故で亡くなられた…」 さすがに“遺族”という言葉は出しかねて、語尾を濁したけれど彼女には通じたようだ。 肩を震わせたまま、小さく頷いた。 「なにかできることがあれば…」と言いかけて自分でもそんなことはないだろうな、と思った。 案の定彼女は首をふり、大丈夫だと言った。そりゃそうだ。通りかかった人間に、できることなんてないだろう。 かといって、そうですかと言って立ち去るのも気が引けた。相変わらず彼女は俯いたままだし、 まだ二十歳前のようだった。亡くなった人は彼女の恋人か何かなんだろうか。余計なお世話だと思ったが、聞いてみた。 「もしかして、亡くなられたのはあなたの恋人かなにか…」 さっきから語尾がはっきりとしないが、それでも彼女は答えた。 「いいえ、違うんです」 彼女の答えを聞いたとたん、僕も妻が言っていたことを思い出した。 「亡くなったのは若い女の人なんだって。スピードを出しすぎた車にぶつけられたようなものらしいから、気の毒よね」 ということは、姉妹か友人か。 「あんまりこんなところに立ち続けては危ないですよ。あなたまで事故にあったら、亡くなられた方が悲しみますよ」 「違うんです」 違うと繰り返して、彼女は大きく首を振った。どうやらまた僕は勘違いをしていたらしい。 しかし、いったい何が違うんだろう。 「違うんです。あたし死にたくなかったんです」 一瞬僕は呆然と突っ立っていた。しかし彼女の言葉の意味を理解して、思わず下がろうとした僕の腕を彼女がつかんだ。 その手はあまりに冷たく、彼女の言葉が冗談でも何でもないことが直感でわかった。 「は、はなして…」 僕はかすれた声で言った。その声にかぶせるように彼女が言った。 「あたし寂しかったんです。誰も気づいてくれないし。そこにあなたが声をかけてくれたから」 彼女の手をほどこうとしたが、その手は万力のように僕の腕をつかんでいた。 相変わらず彼女はしゃくりあげていた。と思ったら、それは笑い声だった。肩を震わせて笑いながら、 彼女の顔がゆっくりと上を向いてきた。髪の毛の間から彼女の顔が見えてきた。そういえば妻が言っていた。 「ぶつかった衝撃で、頭からフロントガラスを突き破ったんだって。可哀想に」 ゆっくりと髪の毛を割り、顔が現れてきた。 「はなせ」自分でも弱々しい声で言った。 そのとき、最初に感じた違和感の正体がわかった。彼女には影がなかった。足元にあるのは僕の影だけだった。 その影も、吸い込まれるように消えていった。僅かに残っていた太陽が、完全に沈んだのだ。 彼女の頭がすぐ近くまで上がってきた。その髪の毛の下にはあるはずだった。 フロントガラスにたたきつけられて滅茶苦茶になった顔が。 そして。 | |
(了) |
「イワノの馬鹿」 |
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