「無題(仮)」     第4話

ニセめぞふぉるて   

 「おい、これって…」
 横たわる少女から沸き出る赤い泉。表面張力の高いそれは畳の上を静かにゆっくりと、 だが確実に、独立した生き物のようにその赤い触手を拡げている。小刻みもしないその躰は見る間に蒼ざめ、 眼鏡の奥からは瞳孔の開いた目がぐっとこちらを睨んでいる。
 「屍体だな」
 森浦が余りにも分かりきったことを云う。だが彼が冷静ではないことは声のトーンで分かる。
 「ああ、出来たての屍体だ」
 私は思わず袋から手を放した。ビールが下の階まで落ちて派手な音を立てて破裂する。
 「うわぁ!」
 二人で弾かれたように部屋に飛び込んだ。私は畳にへたりこむと、少女の腕を取って脈を見る。 無駄だとは分かっていた。が、それは脈を取るまでもなく、夏だというのに酷く冷たくなっていた。 血の気の失せた顔を覗き込む。お下げ髪に眼鏡。紛れもなく私がイメージした少女そのものが現実に、 しかも屍体となって転がっている。
 気が付くと自分の手がいつのまにか赤い海に沈んでいた。はっと手を上げると、 ぬるりとした液体が鈍く光っていた。思わず声にならない悲鳴を上げる。
 「警察を呼ぼう」
 「いや、この状況ではどう考えても俺達には不利だ」
 「だが、このままにして置くことも出来まい」
 「確かに。だから今、考えているのだ」
 「大友克洋の漫画にあったな。血が下の階に染みてしまう」
 「そうだ。俺もそれを考えていたところだ。血をどうにかしなくては」
 「だが、俺達が殺した訳でもないのに屍体を動かすのは無意味だし、危険だ」
 「確かに云える。何故俺達が犯人の手助けまでしなければならない。 いやそれこそ犯人の意図するものに相違ない。仕掛けられた罠なのだ」
 「逃げるか?」
 「それこそ逆に怪しい」
 「……」
 我々は言葉を失った。想像の世界の中でならまだしも、その屍は現実となって我々の目の前に横たわっているのだ。 私は森浦の制止を振り切って受話器を取ろうとした。その時、不意にノックが。
 「警察です。一寸よろしいですか?」
 台所の曇りガラス越しに人物が二人。そのうちの一人、体のがっしりとした男が落ち着きなく体を揺らしている。
 「…中根だ!」
 二人で声を上げるまでもなく、顔を見合わせた。

 気付くと二人で走っていた。自分達でも信じられないようなスピードだ。 電信柱の街灯がチカチカと不規則な点滅を繰り返している。我々は路地を右に左に摺り抜けて行った。 後方からは怒号が聞こえる。
 そう、我々は追われているのだ。とっさに我々は二階の窓から電信柱を伝い、 隣家のガレージに乗り上がり、逃亡を図ってしまったのである。
 「俺達は何故逃げているんだ!」
 「知るか! お前が先に窓を出たんじゃないか!」
 冷静に分析しようとしている頭に反して、足は完全に自分の制御下にないようだ。 いや、頭だっていい加減、徹夜続きで麻痺している筈だ。冷静かどうかも分からない。 息を切らしながら日頃の不摂生と運動不足を後悔した。
 「これからどうする」
 「何? お前は何か考えがあって逃げているのかと思った」
 「そんな訳、ないだろう」
 Tシャツが汗で重くなるのを感じ始めると、ようやく私の足が自制心を取り戻したようだ。 途端に頭の歯車がぎこちなく動き始めた。
 「こっちだ」
 角を左に曲がった先には砂利を敷き詰めただけの駐車場があった。 そこは病院の裏側に面している。我々はその建物の鉄扉を開け飛び込んだ。 病院のゴミ置場だ。ゴミ袋を掻き分け、その奥へと潜り込んむと消毒液の臭気が鼻を突いた。 心臓も鼓動を突きあげんばかりではあったが、我々は必死に深呼吸をしてから息を潜めた。
 やがて砂利を蹴る靴音が近づいてきた。油の切れた鉄扉の音がしたかと思うと、 直に「うっ」という男の声とともに扉が閉まる音。そして「くそう」という声の後、 今度はドカンと扉を蹴る音がした。しばらく小刻みに砂利を蹴る音が続いたが、 次第に遠ざかるのを聴いて我々はようやく息をつく暇を与えられた。
 突然後ろからドスンと音がして、飛び上がり思わず低い天井に頭をぶつけそうになった。 それは後方にあるダストシュートから落ちたビニール袋だった。
 「ふう、脅かしやがる…ここは何処なんだ?」
 「病院のゴミ置場だ。もう店終いのようだな」
 「しかし酷い臭いだ。それに暑い」
 「……」
 私はこの病院が肛門科である事は黙っておくことにした。 刺激臭を放つビニール袋と我々の汗で蒸せかえる中、完全に暗くなるのを見計らって私は扉を少し開けた。 手がやけにべとついて気持ちが悪い。掌を嗅ぐと錆びた鉄の臭いがした。森浦が顔を出して云った。
 「こっちに水道がある。しばらく水を飲むとするよ。ビールを飲み損ねたしな」
 「ああ」
 私は軽く笑った。月明かりに照らしだされた手を見ると、所々黒いものが付いていた。 少女の顔を思い出し、憂鬱になった。
 「…これからどうする」
 「うむ…」
 森浦の言葉にさらに追い討ちをかけられる。
 「逃げたって、逃げきれるものではない」
 「……」
 「このままでは俺達が犯人だ」
 「……」
 「分かっているのか? 連続殺人犯だ!」
 「!」
 森浦の言葉に私は思わず声にならない声を上げた。暗闇の中、森浦の目を見る。
 「おい、このリレー小説の第二話って誰が書いたんだ」
 「誰って、投稿作品さ。メールで来た」
 「…成程」
 睡眠不足のために却って頭が鋭敏に研ぎ澄まされたようになっているらしい。 自分でも驚くようにこのカラクリが解け始めた。胸の支えが取れてしまうと、 これが原稿に出来たら、と悔やみ始めた。
 「あの刑事、やけにタイミングが良過ぎなかったか?」
 「確かに。恐らく犯人が意図的に呼んだに違いない。自分の連続殺人を俺達に擦りつけるためにな」
 「…いや、我々は大きな勘違いをしているようだ」
 「?」
 「明日になれば分かるさ。手を洗ってくる」
 問い詰めようとする森浦を適当にあしらい、私は外に出た。蛇口を捻り手にこびり付いた血を流す。 冷たい水が心地好い。腕のぬめりが落ちきったところで顔を近づけ、水を手で掬って飲んだ。 躰に潤いが戻ると足に痺れを感じるようになった。体重が倍になったような疲労感が襲ってきた。
 戻ってくると森浦は寝息を立てていた。私の脳はまだ興奮状態にあったが、 一刻も早く休ませる必要があった。目をつむっても今日や明日のことを考えてなかなか寝付かれなかったが、 やがて私の意識はすうっと落ちた。42時間ぶりの安らかな睡眠だった。

 目覚めたときにはすでに昼近くになっていた。躰はまだ重かったが、意識は割に爽快だった。 いつまでも鼾を掻いている森浦を叩き起こす。
 「さあ、行くぞ」
 「何処へ?」
 「図書館だ」
 時折聞こえるサイレンの音に神経質になりながら、徒歩15分で市民図書館に到着。薄汚れ、 怪しげな芳香を漂わせている我々はすぐに館内で注目の的になった。私はそんな事を気にも止めず、 雑誌コーナーの閑人共を掻き分けると最近の新聞のストック、新聞の縮刷版を片っ端から拡げた。 小一時間が経過して、横のソファで涎を垂らす森浦に平手を食らわした。
 「何するんだ!」
 「やっぱりだ」
 「何だよ!」
 「俺達は連続殺人犯なんかじゃない」
 「そんな事、始めから分かりきったことだろう!」
 「いや、そうじゃない。連続殺人なんてなかったのさ」
 「……!」
 森浦の無言の悲鳴は私に向けられたものではなかった。振り向いて天井に吊り下げられたテレビを見る。 すると音声を押さえられたNHKは大写しで我々の顔を並べていた…

つづく   


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