イワノの馬鹿 | ||
九十年代はじめの頃だろう。イワノという男がいた。下の名前は知らない。
今はもう倒産してしまったデパートの、新店鋪の建築現場で彼とはじめて知り合った。
知り合ったといってもたまに酒を飲む程度。詳しいことは知らないし、彼の現在の消息も知らない。
とにかくデカかった。背は一九〇センチはあっただろう。 長い顎には剃り残しの無精髭、つぶらな瞳が窪まった額の下に奥まっており、その上には無造作に短く切った髪が乗っかっていた。 そんな図体で不器用なものだったから、周囲では「ウドの大木」だの「デクノボー」だのいわれていた。 親方に至っては名前で呼ぶことさえなく、デクノボーから取って「ボー」と呼んでいた。 「いつもボーッとしてるからな」と親方からいわれても彼は気にも止めず、いつも笑顔を返していた。 また、彼は「知恵おくれ」のようだった。 彼の言葉はたどたどしく、単語を繋ぎ合わせただけの幼稚なもので、 問い詰められない限り自分から口を開くことは滅多にしなかった。 だから彼の素性は誰も知らなかった。 噂では年老いた母と二人暮しらしく、口の悪い男は「親父は家族を捨てて逃げたらしいぜ」と何度も彼の前であからさまに言った。 それでも彼は否定もしなければ肯定もせず、力なく笑っていただけだった。 が、瞳だけはどこか寂し気だったのは印象的であった。 不器用だったが、仕事は丁寧だった。 いわゆる「ドカタ」といわれるピンピン(日当一万一千円)の日雇い土工だったが、 「そこをきれいにしておけ」といわれれば、 重さ五十キロはあろうかというガラ(コンクリートの破片)を肩に乗せては淡々と運び、 休み時間になっても声を掛けなければいつまでも動き続け、 最後には竹箒できれいに掃いた。 だがそれを評価する者は誰もおらず、 むしろ親方には「おい、ボー! 片付けにいつまでかかってやがるんだ! モタモタすんな」と怒られて、 慌てて駆け出すことも度々だった。 そんな彼だから五時になって終業のサイレンが鳴っても働き続けていることが多かった。 もちろん日雇いだから残業手当てなどは付かない。 でも取り柄といえばきれいにすることぐらいしかできなかったものだから、いつまでも納得のいくまで掃き掃除ばかりしていた。 きれいにした所で削り屋(ハツリヤ、削岩工)が翌日になればまた散らかすのだ。 意味がなかった。当然周りからはバカ呼ばわりされた。でも彼は済まなそうにいつも白い歯を見せていた。 生コン打ちはさながらドカタたちにとって戦場だった。 コンパネ(厚手の耐水ベニヤ板)の型枠に次から次へとポンプ車で流される生コンを流し込む作業はドカタの花形だった。 普段始業のサイレンが鳴っても花札をなかなか止めない奴らも、この時は違った。 不安定な足場の上で縦横無尽に走り回る彼等はさながら大火に向かう消防士のようだった。 RC 構造は高層階になればなるほど複雑さを増し、作業も困難なものとなる。 それでも何台も定刻通りに来るコンクリートミキサー車は次から次へとポンプ車に生コンを流し込み、 ポンプ車は数十メートルに伸びたパイプに力強くそれを押し込んでゆく。 だが生コンは一度流し込まれると硬化を待ってはくれない。まさに時間との勝負。 「主役」の彼ら以外の外国人、学生アルバイトは小づちを持たされ、型枠を叩く作業を行った。 イワノもその一人だった。複雑な型枠になればなる程、生コンのような粘度の高いものはなかなか端まで流れずに、 そのままでは隙間を生じてしまう。それを均一にするために小づちで叩き、 その振動で「鬆(す)」を生じさせないようにする。 次から次へと生コンの流し込みが終わった型枠を追いかけ、 小づちを持った集団が叩いてゆくのは端から見れば滑稽だったが、それでも設計通りの強度を得るためには重要な仕事だった。 イワノはその中でも特に滑稽な「落ちこぼれ」だった。 流し込みが終わった箇所から檄を飛ばす「主役(といっても、彼らも同じ日当なのだ)」の声にワンテンポ遅れてついていくのがイワノだった。 「ボンクラッ、モタモタすんじゃねぇよ!」 明らかにイワノより年下の、剃り込み入りパンチの青年にどやされるイワノ。 汗だくになって真っ赤な顔で焦っているが、上から見るとジグザクに動いて効率が悪く、また明らかに足が遅かった。 慌てて反対側に走ったこともあれば、叩き過ぎて型枠が壊れて危うく「パンク」しかけたこともあったという。 五年以上は経験があるはずなのに言葉の通じない外国人や世間知らずの学生の短期バイトより頼りなかった。 程なくしてイワノは小づちを持たされなくなり、ウエス(ぼろ布)を生コンが漏れる箇所に詰め込む作業、 そして最後はひたすらこぼれた生コンをちり取りで拾ってゆくだけの作業になってしまった。 それはいてもいなくてもいい仕事だった。 イワノは賭け事を一切しなかった。煙草も吸わなかった。酒は誘われれば少し飲んだが、ビール一杯で手軽に酔った。 「お前、煙草も飲まねぇんじゃ貯金いっぱいしてンだろう。ちょっとオレに貸せ。倍にして返してやっから」 そういわれて翌日から来なくなった奴もいた。聞けば五万程貸したらしい。 「ボー、お前騙されたんだよ。バカだなぁ」 そう親方にいわれてはじめて怒ったような顔を一瞬見せた。が、すぐに悲しそうにうつむいた。 「ホント、バカだなぁ」 顔を上げて白い歯を見せ、頭を掻いて「ハイ」と頷いた。そんなことが二度三度あった。 一度だけ、イワノは意外な面を見せたことがあった。 詰所(休憩所)前に一箇所太い鉄筋が浮き出している所があったのだが、 ゼネコンの現場監督によると設計ミスの箇所で必要のないものだという。 出入り口のすぐにあるので、よく慣れない学生アルバイトがつまずいては怪我をしていた。 「鍛冶屋(溶接工)がなかなか忙しくてねぇ…来てくれないんだよ」 監督は指摘する度にそう逃げていたが、今思えばあれは鍛冶屋の差別だったのだろう。 ドカタは現場では最下層に位置していた(「ドカチン」などと陰口された)ため、しばしば差別されていた。 「やっぱりカントクは頼りになんねぇなぁ」 などと詰所を後にする監督に大声で聞こえるように話していると、イワノはどこから借りてきたのか、 酸素とアセチレンボンベ、バーナー一式を担いで持ってきた。 アセチレンは重量が六十キロ以上あるだろうというのに、肩から軽々と下ろしテキパキとホースを繋いだ。 「…ライター、貸して」 点火でさえ難しいバーナーをいとも簡単に百円ライターで点火し、二つのバルブで調整しながら青い炎に。 二つのバルブを片手で巧みに調整しながら見事にその鉄筋を溶断した。これには全員驚いた。 「おー」と拍手まで出た。「何だ、やればできるんじゃん」などと惜しみない賛辞が飛び交ったが、 程なくして革の作業着に身を包んだ鍛冶屋が不機嫌そうにこちらに歩いてきた時には、皆、関係ない顔をして詰所を後にした。 それから、すっかり誰もその話をしなかった。と、いうよりは忘れてしまった。 現場の空気が変わったのは今までの親方が現場を離れ、新しく赴任してきた「課長」のせいだった。 「俺のことを親方って呼ぶな。課長と呼べ」 着任早々、朝礼でそう言い放った「課長」は四十代そこそこの、眼鏡の下で陰険な目を光らせている男だった。 「お前らにはわかんねぇだろうが…」が口癖で、何かというと大学出を鼻にかけていた。 そのため生コンの「主役」たちは花札の件ですぐに攻撃の対象になった。 「お前らマトモな教育受けてないヤツラは…」 「課長」の一言で主役たちに火がついた。詰所に怒号が響き、翌日からかつての「主役」たちの姿を見ることがなくなってしまった。 煩雑に入れ代わる「ドカタ」たちの中でひとり、イワノはそこにいた。もちろんイワノとて攻撃の対象であるのに変わりはない。 むしろ日に日にその攻撃は酷いものになっていった。 「イワノ、お前はホントに役立たずだな。イラン人の方がよほど頼りになる」 「イワノ、日本語を理解しろ。あそこの中国人の方がよっぽど通じる。漢字が読めるからな」 「強度計算っていうものがあるんだよ、イワノ。お前のような中卒には理解不能だろうが」 イワノから笑顔は消えていた。前の「親方」も言葉は酷かった。が、「ボー」といわれている方がまだマシだった。 ちゃんと人間扱いをしていたからだ。それでもイワノは我慢をしていた。 もうすぐこの現場は完成に近付いていた。あと少しの辛抱だった。 ある日のことだった。突然、詰所の方から嬌声が響いてきた。何ごとかと思えばそれはイワノの声だった。 咽から絞り出すような甲高い悲鳴。イワノの下には「課長」が横たわり、口から泡を吹いて白目を向いていた。 慌てて数人掛かりでイワノを課長から引き剥がし、物凄い力で振り回す腕をこれまた数人掛かりで取り押さえた。 「ヒィーッ! フゥーッ!」 見たこともないような形相で課長を睨むイワノ。課長はとっくに気絶していた。最初に「現場」を目撃した男によると 「どうやら、課長がヤツの母親の悪口をいったらしい。 突然メチャクチャに腕を振り回したかと思うと乗り掛かって首を絞めていたんだ…」 翌日から「課長」は来なかったが、イワノの顔もそれから二度と見ることはなかった… あれから十年近く経った。 事件の後しばらくは噂で「橋の下に住んでいたのを見た」とか「歌舞伎町でゴミを漁っている大男がいる」、 「イカ釣り漁船に乗っているらしい」というのを聞いた。 「働く場所を干されてロシアに行きシベリアに住んでいる」なんて信憑性のないものも聞いた。 だが今ではすっかり人々の記憶から消えていた。 どんな顔だったかも記憶が定かでなくなったつい最近、交通事故を見た。 「誰か車の下敷きになっているらしいぜ」 茶髪にピアスの男が同じような格好をした男達と話をしている。 交差点に人込みができていて、その頭の先には消火栓の看板柱が斜めに折れ曲がっていた。 近付くと人込みの隙間から高級外車が潰れているのが見えた。 どうやら雑踏警備のガードマンが突っ込んだ車にやられたらしい。 人込みの隙間から大量の血が見えた。近くにおそらく彼のものであろう警備会社のヘルメットが転がっていて、 そこには「イワノ」と下手糞な字で書かれていた。 そばには竹箒が立て掛けてあり、ちり取りには丁寧に歩道のゴミや空き缶が拾われていた。 「さ、行こうぜ」 先ほどの茶髪が煙草を歩道に捨てると、もみ消しもせずにその場を立ち去った。 事故処理も終わったその後、植え込みにはもうすでに無数の空き缶が捨てられていた… |
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(了) |
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