ちいさな怒り

秋 桜   

 「ねえ、そう思わない?」
 僕の向かい側に座ってお酒を飲みながら彼女は言った。彼女の話はこういうものだった。
 彼女が家の近所を歩いているときのことだった。彼女が歩いていた道はバス通りの歩道で、 幅が80センチくらいしかなくて両側はガードレールに挟まれている。その道を彼女が歩いていると、 うしろから子供の声がした。
 「おい、どけよ」
 彼女は避けようがないので少し先の歩道が広くなっているところまで急ごうとしたら、また声が聞こえた。
 「聞こえないのかよ、この野郎!」
 「やめなさいっ」という声も聞こえたが、彼女は腹が立って振り返った。すると、 自転車に乗った5歳くらいの男の子と別の自転車に乗った母親がいた。 それを見た彼女は子供のところまで戻って大声で言った。
 「どの口がこの野郎って言ったの?」
 母親が唖然としていたが、彼女は続けた。
 「この狭い道で、どうやって自転車をよけろていうの? 年上の人に対してこの野郎って言っていいの?  あんたも母親ならちゃんと躾けくらいしなさいよ。あんたもわかってるとは思うけど、学校ってところは勉強しか教えてくれないの。 それ以外の社会ルールとか常識とかマナーとか、そういうことを子供に教えるのが躾けってモンでしょうが」
 彼女は呆然としている親子を残して、そのまま帰宅したそうだ。
 「腹立つと思わない? 自分の子供がとんでもないことやってるのになかなか注意しないのよっ」
 「まあ、そうだね。でも、僕だったら怒鳴ったりできないな、やっぱり」
 「なにそれ? なんかアタシがとんでもない女みたいじゃない」
 「いや、そうじゃなくてさ」
 「じゃあなによ?」
 「いや、躾け云々に関しては僕もそう思うけど、それを他人が路上で大声で言うことはないんじゃないかなと思ってさ」
 「まあその辺はアタシも大人げなかったな、とは思ってるけど…」
 「でもいいこと言ったんじゃないの。親にとっては」
 「そうよね。いいこと言ったのよね」
 彼女はそう言うとグラスに残っていたお酒を一気に飲んで、そのグラスを持ち上げると大きな声で言った。
 「スイマセ〜ン。これ、おかわり頂戴」

fin    


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