塩基配列の記憶

不折亭迷蔵   

 「なんて因果な商売だ」
 ヤマカワは塵を蹴りながら、異臭放つ路地の奥へと進んでいった。 旧区画の名残りである青いプレートが彼の目的地が直であることを指し示していた。 程なく彼が目にしたのは、真っ赤なヴィニールレザー製の、見るも朽ち果てた煙草屋の看板である。 彼は懐から小瓶を取り出すと、口の中にそれをシュッと吹きつけた。
 「さて、商売々々」
 ネクタイを閉め直し、アタッシュケースを手に店の小窓に顔を入れた。
 「ごめんください。特許の件についてまいりましたぁ」
 古式ゆかしき「タタミ・フロア」の上に乗っかっていたのは陰気な老婆であった。確か昭和43年生まれだったはずだから、 100歳近いはずだ。ミイラと云っても通用する容貌であったが、顔中に刻まれた皺が微かに動いた。
 「そのことについては再三お断りしたはずですが」
 意外にもはっきりとした口調だ。ヤマカワはミイラが喋ったのに少し戸惑ったが、ひるまずに云った。
 「いえ、もう一度お話だけでもと思いまして…内、お邪魔してよろしいですか?」
 ヤマカワはミイラの許可も待たずにズカズカと上がった。擦りきれたタタミ・フロアで足の裏に違和感を覚えながら、 ミイラの前にドッカと座るとアタッシュケースを広げ出した。
 「金額的に不十分でしたら、何なりとおっしゃってください。誠意を持って対応します」
 ヤマカワは満面に笑みを浮かべてこう切り出した。

 ヤマカワはDNA特許専門の「買取り屋」である。今日も去る筋から依頼を受けて、 こうしてこの老婆が所有しているDNAの特許を買取りにきたのだ。
 西暦2020年代、故人のDNAを特許登録するのが流行ったことがあった。 世界に一つとない「個人情報」を永久に止めておこうとする、メランコリックな趣味である。 それがこの2065年になって、突然その時代に登録された特許が需要性を帯びてきたのだ。特許が取得してある以上、 たとえあとで発見された有用な遺伝子情報であっても、勝手に使用するわけにはいかない。 そしてヤマカワのような商売が成り立つようになったわけだ。
 彼の多くの「取引先」がこのような旧市街のうらぶれた住人である。しばしばシティとの「生活習慣の違い」から、 トラブルが生じてもつれた「取引先」が彼の得意ソースだった。 彼は今でこそ時代遅れな「スーツにネクタイ」という奇妙な格好で、シティの平均年収の倍を稼いでいた。

 「私は売る気がありません」
 よし来たか、とヤマカワは思った。しばしば旧市街の住人は少しでも高く売ろうと、このように焦らすものだ。 いわゆる「下層市民」である彼らは少しでも「中流」に上がりたいため、法外な値段をふっかけるのである。 ヤマカワはそんな彼らの思惑を知り抜いていた。彼は「シティ」のイメージを巧みに膨らませ、 夢うつつになっている彼らをそれと気付かせずにサインさせる技術を持っていた。
 「ええ、確かに故人を偲ぶ。素晴らしいことです。でも鈴木さん、 あなただってこんなところで一生を終えたくないでしょう。今なら…」
 「いえ、私はここでいいのです」
 鈴木さんと呼ばれたミイラは目線をこちらに向けもせず、きっぱりと云った。 ヤマカワは「こんなタイプは初めてだ」と面食らった。しばし流れる沈黙。
 ヤマカワが彼女の目線を辿ると、そこには黒塗りの木箱が置いてあった。飾り気のない質素な漆塗りの箱である。 彼はそれが「仏壇」であることを知っていた。奥には取得証明書!
 「旦那様の…なんですね?」
 「……」
 また沈黙。ヤマカワは彼女の夫が事故で他界していたのも知っていた。相手と波長を合わせるのも彼の技なのである。 しかし、今回ばかりは苦戦を強いられた。彼が珍しく次の言葉を思案していると、突然彼女が堰を切った。
 「…私どもはね、子供が出来ませんでしたから、庭木を手入れするのが子育てみたいなものでしてね、 この家から遠ざかりたくはないのですよ」
  庭を覗くと家の中とは対照的に青々とした緑が目に飛び込んできた。梅、椿、木連、それに金木犀。 今時滅多にお目にかかれない高級庭木だ。
 「それにこの家自身にも思い出が染み付いてますし…私にとっては思い出が全てなんです」
 ヤマカワは家の中を見回した。なんていうことはない時代ものの木造住宅だが、よく見ると手入れが行き届いていた。 障子は白く破れもなく、柱は黒光りして、すすの一つも見られなかった。ただ唯一、 畳だけが擦り切れていたのは最後の畳職人がいなくなったからだ。(彼は先日のニュースでそれを知っていた)
 「…庭を見せてくれますか」
 ヤマカワは縁側から庭を眺めた。数メートルもない小さな庭に木はのびのびと育っていた。 空を見上げるとどんよりとした雲が渦を巻いている。年間の日照時間も少ないのになぜこんなにこの木は元気なんだろう?  それを見透かすかのように彼女は云った。
 「天国であの人が見守ってくれているんでしょう」
 しばらくの間ヤマカワは考えた。俺にこの老婆の思い出を奪う権利はない。 塩基配列の書かれた紙切れも、彼女にとっては思い出であり、全てなのだ。 そう思って引き返そうとした矢先、
 「これを持っていきなさい」
 老婆の手には証明書…!
 「私のように朽ち果てるのを待つ婆が持っていてもいかんのかも知れん。少しでも役に立つんなら持っていきなさい」
 辞退しようとする彼に老婆は囁いた。
 「な〜に、タダとは云っとらん」
 老婆は顔を皺苦茶に歪めて微笑んだ。

 後日、ヤマカワは庭木を覗きに彼女の家を訪ねたが、そこには工事中の垂幕が。
 「ここのお婆さんはどうしましたか?」
 「ああ、つい先日おっ死んじまったそうだ。老衰だとよ」
 ヘルメットの男はヤマカワの奇妙な姿をジロジロといぶかしげに見ながらそう云い放った。 ヤマカワは奥で重機がミシミシと音を立てるのを聴きながら、
 「どうせ、月末には金が振り込まれて、次の仕事が来るだけさ」
 と誰に云うまでもなく、その場を立ち去った。

 彼女の夫のDNAは人づてに聴いた話では「長寿に関する妙薬」に役立っているそうだ。 金持ちにしか手に入らない貴重品らしい。

fin    


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