短 編 小 説 |
友人Hの追想 |
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谷 真人 | |
ふと、何かの拍子で思い出しては自責の念に駆られてしまうのがHという友人のことだ。もう何年前になるのだろう、
彼がバイクの事故で夭折したのは。 共通の友人Mから訃報を聴いたのは、あれほど入れ込んでいた同人誌制作を止め、希望に燃えて就職し、 散々色々なことで振り回されていた最中だった。 思えば酷い年だった。学歴も経験もない私に訪れたチャンスを、妨害するかのように起こる出来事。 あとから入った私に対する、同僚の風当たり。父が脳梗塞に倒れ緊急入院。そんな中で1日平均15時間、 場合によっては20時間も働いた。休みなんて勿論ない。正月も出勤だった。友人と連絡を取りあえるどころか、 自分のアパートにもほとんど帰れない日々。たまに帰るとそこは淀んだ空気の流れる散らかった部屋。かつてピアノを弾き、 ヴァイオリンをいじり、コミケ前にはタコ部屋となり、友人と鍋を囲った、あの心安らげる場所ではなくなっていた。 またその頃、私はバイクで散々危ない目にあった。過労による運転ミスも度々。スリップによる転倒ならまだしも、 後日には追突事故。免停も食らった。怪我しないだけマシな状態で、精神も体力も限界に来ていた。 友人の声が聴きたかった。だが、同情はされたくなかった。自分一人で突っ張って生きていた。 Hは私にとって、安全弁のような男だった。空気を圧縮するコンプレッサーという機械がある。 自動車修理工場などにあるあのバラバラとけたたましく音を立てる機械。それに付いているのが安全弁だ。 空気は圧縮されると頑強なタンクに詰められてゆく。が、いくら頑強であっても、 気圧が極端に上がれば鉄の容器をも破ってしまう。それを防ぐのが安全弁で、 タンク内の気圧が基準を超えるとそれが働いて、余計な気圧を逃がしていくのだ。 とはいっても、安全弁が働くことは滅多にない。大概は気圧センサーが働いて、 タンクに余計な空気が送り込まれずに済むようになっている。傍らにいながら万が一のときにしか働かない、 いわば安全弁は当たり障りもない傍観者なのだ。 まさに何かやらかしかねない私を「おいおい」と聴き流すのが彼だった。推理小説で云えばワトソンであり、 漫才ならビートきよしであった。彼がいたから私は子供のように無邪気に振る舞えた。 かなり本人にも意地の悪いことをした。それでも彼は白い歯を見せながら「おいおい」としか云わなかった。 私はそんな彼を「安全弁の男」のままにしておかなかった。 「浜名湖へうなぎ食いに行こう」と突然言い出して連れ出したことがあった。 「浜名湖に何やらスゴイうな丼があるらしい」というのを聴いてツーリングに誘ったのだ。 Mによるとかなりの食いしん坊であるらしい彼は珍しくすぐに賛成し、 Mと一緒に3人でうなぎを食うためだけに浜名湖までバイクを飛ばした(ちなみに浜名湖さえも見ていない!)。 私は誘っておきながら地図も持たずに彼らに頼り、 なおかつ見通しのよい高速カーブに差しかかると全開で彼らを置き去りにした。 そんなときも彼は「おいおい」と云ってやはり笑っていた。 だが、うなぎ屋で「特上」をHと二人で頼み、ラーメンどんぶり並みの二段重ねのうな丼 (つまり「特上」とは「特盛」なのだ)を食ったときである。大柄な(タイコ腹) の私が汗をかきつつ奮闘していたのを、小柄な彼は涼しい顔してぺろりと平らげ、 なおもMが挫折した「上」(つまり「大盛」)の残りさえも平らげてしまった。 Mと私が腹を押さえて苦しがっているのに対し、「甘い物が食いたくなった」と云って、 さらに喫茶店に入って大きなパフェを頼んだのには閉口したものだ。 この会恒例の軽井沢「軟化」合宿にも無理矢理誘った。彼は渋りながらもちゃんと小雨が降る中、 新車のバイクで来た。人見知りする彼であったが、初対面の人間ともちゃんと打ち解けていた。 「酔って彼の新しいキャラクターを発見した」と翌日友人から聴いた。 残念ながらそのときの私は疲れてとっくに爆睡していた。 朝、彼が普段と変わらないのを見ながら悔しがったのを覚えている。 彼と知りあったのはコミケでスタッフをしていたときだ。出会ったときのことは覚えていない。 私は誰それ構わず声をかける男だし、また当時多くの人間とも知り合いになったからだ。 が、いつの間にか私は彼の側にいることが多くなっていた。年が同じだったせいもあるのかもしれない。 からかい易かったからかもしれない。でも、私は彼がただならぬ何かを持っているのを感じていたのだ。 多くを語らない彼だったが、何か非常なこだわりを持っているのを感じ取っていた。そこに共感していたのだ。 一度だけ、彼の部屋を訪ねたことがあった。彼の家は東京都を間に挟んだ向こうにあるため、 電話でしばしば連絡を取り合ってはいたが、コミケでもない限り会うことはあまりなかった。 そのときは彼が友人の中古バイクの売買を仲介してくれたので、そのバイクを取りにいくため、初めて訪れたのだ。 彼の部屋は新築にしてからしばらく経つというのに倉庫のようだった。畳二畳ほどのスペースを除いて、 本や雑誌がうずたかく積まれていた。何故か本棚に入っている本までも、全て背表紙を後ろに向けて平積みしてあった。 問うても「別に…」と苦笑するだけだった。 中心には彼自慢のオーディオセットがあった。JBLのスピーカーはメーター1万円のコードでつながれていると云う。 真っ赤なエレキギターとベースも置いてあったが、彼の演奏は「いいよいいよ」と最後まで聴かせてもらえなかった。 仕方なく彼のマイルス・デイヴィスを聴きながら、私が当時狂っていたジャズ談義を一方的にまくしたてたものだ。 そういえば彼に「バンドを組もう」と提案したこともあった。 「俺はキーボードでも何でもいーや、とにかく脇役。Mはドラムだ。今から練習しろ。 で、Hはリードベースね。リーダーだから」 「リードベースって、それ何だよ? それにリーダーって? ムチャ云わんでくれ」 と、彼。私はムチャクチャを云っては彼を困らせた。後日聴いた話では、 高校のときにバンドを組んでギターを弾いていたこともあるそうだ。そんなこと、彼から一度も聴いたことがなかった… |
通夜。 新調して間もないダブルのフォーマルに違和感を覚えつつ、小雨の中駆けつけた。 「通勤中、ガードレールにぶつかって、首の骨折れちゃったらしいよ。即死らしいよ」 Mが囁いた。棺の中のHを見る。青アザが少し、首の周りに布を巻かれ、花に囲まれた彼の顔は少しむくんで見えた。 苦痛に歪んだ顔を想像していた私は、そっけない表情に少し拍子抜けした。表情の豊かではない彼だったが、 その青白い顔はあまりにも無表情すぎた。 初めて見る家族。必死に笑顔で来客を迎える母。目が赤く腫れた妹。半ば放心状態の父。 痛いほど気持ちが伝わってくる。 翌日の葬儀に参列。お寺を借りきっての盛大な葬式。それに対して参列者の少なさ。特に同世代が少なかった。 Mは神妙な顔をしながら云った。 「ともだち、少なかったからね」 会食中、Hの母親にまだ本人に渡していなかったツーリングのときの写真を渡す。見た途端驚いて、妹も呼び寄せる。 「あの子写真嫌いでね、こんな風に笑ってこっち向いている写真なんて珍しいわよ」 彼の母は少しも悲しみを見せないで、気丈に笑って見せた。 マイクロバスに乗って火葬場へ。Mはいつまでも居心地悪そうにして、平静だ。 「何か、まるで実感が沸かないんだよねぇ。まだこれって夢かなぁって思っちゃうんだよ」 周りが悲しみに暮れている中、申し訳なさそうに云った。ほどなく現代建築風の建物に到着。 祖母の葬式以来、十何年振りかの火葬場。そのときの父がひっきりなしに手洗いで顔を洗っているのを思い出した。 色々なことが頭を過る。 ついに釜の重厚な扉が開く。棺が釜に入れられた途端、頭の中を流れていたことが洪水のようにあふれてきた。 「おいおい、ムチャ云わんでくれ」 「わし、写真撮られんのキライなんよ」 「また、来よう」 壁につっぷした。全身に力がこもり、熱いものがこみあげた。石の壁が手に、額に冷たかった。 釜から出てきた骨は祖母のときと違って真っ白だった。20代の若い骨。到底それがHのものとは思えなかった。 別れ際に、これまで笑顔を絶やそうとしなかった彼の母が、言葉を詰まらせ泣き崩れてしまった。 帰りの電車の中でそのシーンが何度もリピートされた。 |
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私はずっと後悔していた。なぜ電話をかけなかったのだろう。バイクで危ない目に遭ったあと、交機に捕まったあと、 友人の声が聴きたかったとき、なぜHに電話しなかったのだろう。あの事故のあった数週間前のことなのだ! Mによると、事故のあった場所は緩やかなカーブで、事故原因になるものなど一つもなかったとのことだ。 警察が調べたところ、衝突時には100キロ近いスピードが出ていたという。 もし電話をかけて「おまえも気をつけろよ」と云っておけば、事故は防げたのかもしれない。そう思って仕方がなかった。 私が「万が一の」安全弁になるべきだった。 それから間もなく、あれだけ全精力傾けて働いた会社をあっさりと辞めてしまった。アパートも引き払った。 彼のせいではない。無能な上司と、冷血な社長、そして短気な私のせいだ。 これが運命というものなのだろうか。その自問自問にようやく整理が付きそうになったそれから二年後、 彼の墓前に立った。持参したジャックダニエルでやっと彼と初めて飲んだ。飲み比べたらこっちが悪酔いして墓前で吐いた。 Hの勝ちだった。 案外、Hのほうが私を振り回していたのかもしれない。だがHに振り回されていたならそれこそ本望だ。 果たして、彼がそれを望んでいたのか知る由もないが… |
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fin |
(無題) |
激止同好会/(C) Gekishi Doukou-kai |